ひさしぶりに ヴァント指揮NDR モーツァルト「ジュピター」を聴きました。
感動的です。素晴らしいとしか言いようがない。 このところ忙しくて全く更新できませんでしたので、ヴァントで再開しましょう。 === 私がヴァントをはじめてきいたのは、NHKのFM放送。 ラジオをつけると、シューベルト「グレート」の2楽章なかほどでした。 完璧なアンサンブルと、豊かな歌が両立し、深々と呼吸しながら、音楽が豊かに進みます。 私は音楽にうたれ、そのまま最後までききとおした。 一体だれが、このような演奏をするのか? 拍手がフェイドアウトして、アナウンサーが告げました。 1985年 ブレゲンツ音楽祭 ウィーン交響楽団 指揮 ギュンター・ヴァント なにものか?! 彼が既にN響ほかに客演しており、大評判だったことを、私は知りませんでした。 ただちに石丸電気にいって、彼の「グレート」を求めます。 ケルン放送によるスタジオ録音のLPでした・・ 彼の音楽は、スコアを純粋に読み込み、完璧なアンサンブルを徹底的に追求するところから出発します。音楽の出自(民族性とか、ストーリーとか)よりも、音楽そのものに焦点をあわせた姿勢は、20世紀初頭・モダニズムの美意識です。 若杉さんのいう「精密なジャンポジェット」。 しかるに、ヴァントがぬきんでているのは、こうした美意識・職人的な完璧さの追求に加えて、他の要素を兼ね備えているからでしょう。 磨き抜かれたアンサンブルを極限まで追求しながら、推進力を失わないことー時にビックリするほど豪快な、真一文字のエネルギー。あるいは音楽そのものに焦点をあわせながら、音現象の淡泊な追求には陥らず、音楽に高潔な気品があること。徹底管理のアンサンブルの中から、意外なほど豊麗な「うた」が表出されること。 引き締まった響き、緊張感、推進力を持ち前としながら 気品があり、歌があり、 全てを統合して、古典的な、アポロン的な様式感におさめる構成感がある。 精密と剛胆。潔癖と詩情。純粋で強い、音楽への集中、意思、愛。 こうした要素をあわせもった指揮者だからこそ、最晩年において、更に一段と深い、柔らかく大きい美しい世界へ舞い上がったのだと思っています。 私はかつて、クラシックファンサイト「招き猫」に投稿し、この深化を「ジャンボジェットが鳥になって、自由に空をとぶ」といいました。そのときの私のかきこみは、私なりのヴァント論がまとまっていると思うので、下記に再掲しておきます。いつか時間があったら、もう一度再構成してみたいと思っているのですが、基本的な考えは、今も変わりません。 ★★以下、「招き猫」への私の投稿★★ <1984年・カルミナブラーナを論じたスレッドから> (前略) この頃の演奏を、私は「徹底管理!」と表現したくなることがあります。 (そこに惚れ惚れしちゃうのが私です) 結果として、しばしば、器の小さな、窮屈な音楽になります。 ヴァント=NDRの初来日(最後の来日ではなく、90年代にブルックナー8番)のとき、プログラムに若杉さんのコメントがのっていました。 #ヴァントの音楽は、ジャンポジェットに似ている。細かい部品が完璧につなぎあわされて、美しく空を飛ぶ まさにそのとおりだと思います。 しかし、そのままであれば、ヴァントは、あるいは最高の職人であっても、最高の芸術家にはならなかったかもしれない。 音楽の不思議は、そのヴァントが、最晩年に不思議な変容を遂げた、ということですね。ジャンボジェットが、遂に空を舞う鳥と二重写しになるとき、聴衆は感動したのです。精密を求め続けることの極北に、精密とは違う芸術の地平があった。 ミューズの神は、ヴァントに優しかったのです。 (中略) 私はラトルが本当に好きなのですが、彼がベルリンのジルベスタで取り上げた 「カルミナ」は #こんなに楽しくて本当にいいのかしらん? という気持ちにもなる。 20世紀音楽としての「カルミナ」には、どこかに、知性が欲しいのです。 動物的・原始的エネルギーに助けを求めたくなるような、 それでも動物的・原始的になりきれないような そういう、知と情の葛藤。 ヴァントは、明らかに知が勝った演奏で、 しかし、豪快に解放されるエネルギーを、強引に知が押さえつけたような、 葛藤がある。 私は、そこに 「曲本来の姿」20世紀インテリとしてのオルフが顕れているようにも思うのです。 上記については、ヴァントのストラビンスキーにも共通する議論だと思います。 しかし、ストラビンスキーとオルフを比較すれば、ストラビンスキーのほうが、より「知」に重点があることは間違いない。 だから、ヴァントは、ストラビンスキーを晩年に至るまで繰り返し演奏しており、 一方「カルミナ」は決して頻繁に取り上げるレパートリーではなかった。 あるいは、だから 「火の鳥」組曲をとりあげるとき、 よりロマンティックな1919年版ではなく、 よりザッハリヒな1945年版を使う、ということだと思います。 <<晩年のヴァントに訪れた芸術的な転機は、奇跡だろうか?という問いかけに対して>> 私の意見: 奇跡であると同時に、彼の歩みが必然的にもたらした実りでもあった、と思います。 以下、長くなりそうですが。 抜群のオーケストラドライブ、という点でいえば、 たとえばロジェストベンスキーのような人も頭に浮かびますね。 凄腕で、楽しい指揮者。 しかし、ヴァントが私にとって特別なのは、 そのような、徹底したオーケストラコントロールが、 完璧なメカニックを突き抜けたものー美とか、永遠性とか、 への憧れと並存している点です。 この点は、私が彼を最初に聞いたときから一貫して変わらない印象です。 1985年ブレゲンツ音楽祭ライブのFM放送 ウィーン交響楽団・シューベルト・グレートを聴いた私は、 完璧さと豊かな歌が両立し得ることに、驚愕したのでした。 ヴァントは、自らの音楽について明確に語る人です。 私は彼の演奏を夢中で次々と聴いて、 やがて彼の音楽を自分なりに理解したつもりになり、 後に彼の発言に接したとき、理解がそれほど誤っていなかったらしいことを知って嬉しく思いました。 手元の文献から拾ってみます: 彼は、基本的に、20世紀前半の美学の人です。 モダニズム、普遍主義、テクスト至上主義、完璧なメカニズムへの指向など。 その面目を示す発言として 「ブルックナーは・・『演奏会場の教会音楽家』と解釈されてはならない。・・最大の交響曲作曲家の一人であること、単に敬虔で神聖な気分をもった作曲家ではないことを明確に示したいと考えている」 「・・荘重な典礼やらお香のたちこめる儀式やら・・それはけっして偉大なブルックナーの芸術といったものではない」 (ギュンター・ヴァント音楽への孤高の奉仕と不断の闘い ザイフェルト著・根岸訳 音楽の友社 2002年 357ページ) 一方で、彼には、純粋な精神性への志向があり、それは「祈り」に近づきます。 それがバーンスタイン的(アメリカ的)純朴さをとって現れるのではなく、 ブロムシュテットのように美しい宗教的信条として示されるのでもなく、 思索的に示される。 「・・一人の人間がどうやってあのようなことをなしえたのかは、謎としかいいようがないのだ。私にとってモーツァルトという人物は、いうなれば神の存在証明のようなものである。」 「この天才によって音楽は、恩寵のはたらきとしてわれわれのもとに来たのであり、そこには端的に神のメッセージが存在する」(前掲書20ページ以下) 「・・私はなぜ彼がこれほどまでに完璧を求め続けるのかを、思い切って尋ねることができた。ヴァントは・・静かにこう言った『こういうことについて語れるものかどうか分かりませんが、それは宗教的な瞬間なのです。・・コンサートは礼拝ではないし、そうであってはなりませんが、でも宗教に向かうものではあり得ます。指揮台でそんなことを考えているわけではありません。ただ音楽のことだけを考えています。ところがある瞬間に、音楽はそちらの方へ向かっていきます。宗教的な概念が音楽に入り込んでくるなどと想像する必要はありません。音楽事態がそういった要素を内包していて、そこから宗教的な瞬間が生まれるのです』『私の頭は明晰で、醒めています・・』 (Ronald Vermeulenのインタビューに答えて 「Gramophone Japan」2000年5月号12ページ) 彼は、ザッハリヒなモダニストであり、究極のアンサンブルを求める職人でしたが、 同時に、きわめて純粋で深い、音楽への愛をもった人でした。 その理想の音楽への憑かれたような集中と純粋性は、 若いときから一貫して変わっていないのです ーたとえば、ヴァント46歳、1958年の「アイネクライネナハトムジーク」、 53歳、1965年の「モーツァルト交響曲34番」に、 そうした純粋性がはっきりと聞き取れます (ケルン・ギュルツェニヒ・オーケストラ TESTAMENT盤) 彼の「カルミナブラーナ」でいえば、 物語を経て、ソプラノソロ(美しい伴奏の響き!)を優しい合唱が受け入れた後、 遂に回帰する「おお運命よ」冒頭部。 聴衆も、演奏者も、熱くなり高揚するはずのこの部分で、 ヴァントは完璧な統率を示します。 マグマのような圧倒的なエネルギーを相手に回して、 これを完全に制御しようとするその意志力! 音形が繰り返され、音量が一段とピアニシモに落とされるとき、 知と情の葛藤は極限に達します。 CDを聴いていて、椅子から一歩も動けないほどです。 なぜ、あなたは、それほどまでに意志を強く持つのですか? オケと合唱が一気に全開されても、鉄の意志による統率は緩まない。 情熱を氷付けにしたような圧倒的な演奏は、最後の和音に到達しますが、 その和音は余りにも短く打ち切られ、聞くものの開放と感動を許さない。 このラストには、当時のヴァント(72歳・1984年)の演奏特性が端的に現れています。いわば余りにも潔癖、最後の最後でちょっと物足りないーもう少しだけでいいから「演出」してくれたっていいんじゃないの?―その潔さが、私には感動的なのですが。 そのような音楽を徹底して求め続けてきた人が、80歳を超えて、なお指揮台に立ち続けたとき、「ジャンボジェットが自由な鳥になる」実りの季節を迎えた ーそれは、美しい必然というべきではないでしょうか? 以上を音楽現象として言い換えるなら、 潔癖な彼は最晩年に至り、遂にー決して「聴衆へのサービス」ではなくー ここぞという部分で存分に深い表現が可能になった、 とも言うことができるでしょう。 「音楽がスコアから流れ出るにまかせることができるという点で、昔よりも勇敢になっていると思います。音楽をコントロールでき、自分をもっと率直に表現できるのが分かっているからです」 (前掲のインタビュー 「グラモフォン・ジャパン2000年5月号 p12) (中略) 違う音楽になったのではなく、それまでの音楽が深化したと思います。 それは奇跡であると同時に、 彼の歩みが必然的にもたらした実りでもあった、と思います。 ミューズの神は彼に優しかった。 === 以上、引用おわり。 次回は、私が特に名品と思うCDを挙げます。 #
by Cosi-Ferrando
| 2007-04-22 14:22
というわけで、有希・マヌエラ・ヤンケ嬢「東京デビューリサイタル」
(11月21日(火)トッパンホール) (ピアノ:アユミ・マノン・ヤンケ)。 パガニーニ国際コンクール優勝=技術力は折り紙つき。 その技術が、技術のための技術ではなく、正統的なヨーロッパ音楽の演奏と表裏一体となっています。その両立が、特別であり、貴重であると思う。 まずプログラムが素晴らしい。 バッハ 無伴奏バイオリンソナタ2番 BMW1003 ベートーベン ヴァイオリンソナタ3番 op.12-3 パガニーニ なんでしたっけ(汗) イザイ 無伴奏バイオリンソナタ6番 op.27. R・シュトラウス バイオリンソナタ ワックス カルメン・ファンタジー アンコール ブラームス ハンガリー舞曲より クライスラー 中国の太鼓 どおです! いいでしょ。すてきでしょ。素晴らしいでしょ。 こういうプログラムを組むというだけで、このひとの音楽的知性、音楽的教養、感性が分かるってものです。 前半と後半が対称形になってます。それぞれ無伴奏ではじめ、正統的なソナタをメインにおいて、最後は「パガニーニ優勝」の技巧で締める。 バッハはパルティータじゃなくソナタで、それも2番をもってきた。 次はモーツァルトじゃなくて、ベートーベン。それも力強いop.12-3という選択は実に賢明。ピアニストは姉のアユミ・マノン・ヤンケで、ヴァイオリン同様に息の長いフレージングに美点があって嬉しい。姉妹は大変結構なアンサンブルを聴かせて好感。 パガニーニで有無を言わせぬ技術を展開しー楽々とひいて、音楽そのものに奉仕する技術!お客さんも大喜び。 後半はバッハに呼応してイザイ! それも6番―1楽章形式で、冒頭に置くにふさわしく、しかもスペイン趣味が織り込まれて、トリのカルメンに呼応する。 リサイタルの頂点はR・シュトラウス。 曲の規模、華やかさからいってメインにふさわしく、かつ今の自分に最適の音楽を、しっかりと選んできた。ブラームスではなく、Rシュトラウスを選んだことに感心します。 そのR・シュトラウスが何と素晴らしかったことか! 難しい曲で、しかし、いい曲なんです。 私はこの曲が大好きで、いやあ、完全に満足しました。 初々しさと、華麗さと、時に憎たらしいような巧さ、若者特有の恐れを知らない傲然たるところ、バラ騎士のオクタヴィアンみたいなキャラクターが、この曲にはあります。ヤンケ嬢の演奏では、それが見事に表出されて、すっかり私は酔いました。すぐあとに交響詩「ドンファン」が控えていることが、あれほどよく分かる演奏もない。豊麗な歌! 多様な要素をもった曲で、Rシュトラウス特有の、大向こう受けするグランドマナーもある。ヤンケ嬢は、その「大きな音楽」も備えた奏者でした。この人はブラームスの協奏曲が似合うのです。 つくづく「正しく音楽的な素養を身につけた人だ」と思う。兄ヤンケがチューリヒトーンハレのコンマスに就任したのも、うなずけます。あのオケのコンマスも、技術と正統の両立が要請されるでしょうから。 このソナタ、CDにはクレーメルの名演がありますが、彼は、やはり一筋縄でいかない演奏をするので(笑)、キラキラとした華麗さに泣けちゃうのは、かえってヤンケ嬢である。Rシュトラウスのソナタ、録音してくれないかしら。 私の大好きなCDに、亡きウィーンフィルのコンマス、ヘッツェルが録音したブラームスのヴァイオリンソナタ全集があります。 いわゆる「何も足さない、何もひかない」ってやつで、ただ音楽が流れる。 これこそが、ブラームスだ。 ヤンケ嬢は、ああいうブラームスを弾けるようになる可能性をもったひとです。 そういうソリストは極めて貴重です。 わたくしフェランドは断然、このひとを応援いたします。 ちなみに私の連れ合いは、第2回仙台国際音楽コンクール(平成16年5~6月)でヤンケ嬢を聴いてます。http://www.simc.jp/2004/index.html このとき第6位だった彼女は、セミファイナル2日目の「聴衆賞」を受賞。私の連れ合いは、ヤンケ嬢のメンデルスゾーンに感動して「メンデルスゾーンは、こういう曲なんだ!」と思ったといいます。コンクールのパンフレットに書き込んでもらったヤンケ嬢のサインは、宝物。 ======= <<宣伝>> 有希・マヌエラ・ヤンケさんのCDが発売されます。 リサイタル会場で予約受付していましたが、インターネットでも予約の告知を見つけました。お母様が神戸女学院音楽部の卒業生であるとのこと、神戸女学院同窓会「めぐみ会」東京支部のサイトです。以下に貼り付けておきます。 さあ皆さん、購入しましょう! <以下 貼り付け> http://kcmegumi.seesaa.net/article/27699833.html 「この度 私達の初めてのデビューCDがドイツのラム社より 12月上旬に発売されることになりました。 日本では店頭販売はいたしませんが 多くの日本の皆様のCD コレクションに加えて頂いてお聴きいただけると大変嬉しく、 郵送にて皆様にお届けさせて頂きたいと思います」 曲目 ① F.ワックスマン (1906-1967) カルメン・ファンタジー ② N.パガニーニ (1782-1842) イ・パルピティ 作品13 ③ N.パガニーニ (1782-1842) カプリス24番 作品1 ④ P.I.チャイコフスキー(1840-1893) セレナーデ・メランコリーク 作品26 ⑤ H.W.エルンスト (1814-1886) オテロ・ファンタジー 作品11 ⑥ N.ミルシテイン (1904-1992) パガニニアーナ ⑦ C.サンサーンス (1835-1921) ロンド・カプリチオーゾ 作品28 通信販売の案内 (下記まで御申し込みの上、ご送金いただければ、後日送付申し上げます。) 申し込み先: Yuki Manuela JANKE メールアドレス: yuki-cd@hotmail.co.jp 住所: ERIKASTR.13, D-82194 GROEBENZELL, GERMANY 振込先口座 三井住友銀行 西宮北口支店 普通預金口座 4499273(片山有希名義) インターネットバンキング、又は 銀行振り込み (振込手数料受取人払い)でお願いいたします。 価格:2200円+送料200円 ====== #
by Cosi-Ferrando
| 2006-12-05 12:39
| コンサート
御無沙汰してます。このところブログ更新が滞ってます・・
先日、不幸にして、マゼール=ニューヨークフィルを聴いてしまいました。 (11月11日(土) オペラシティ) 不幸にして?然り。 ショスタコーヴィチ「交響曲5番」は、もともと、苦手な曲なので、コメントする資格がありません。きっと名演奏だったのでしょう。というか、あの演奏を聴いてもやっぱり苦手なのだから、私はこの曲が、この作曲家が、本当に苦手なのだ。(えらい人だと思うけど。「ジャズ組曲」は好き) 幕開きのヴェルディ「シチリア島の夕べの祈り」 アンコールに ドボルザーク「スラブ舞曲」 ビゼー「アルルの女のファランドール」 3曲とも、ゴージャスで大きな音が鳴ったものです。3曲とも見事に豊麗な同じ音色で、最高のドルビーシステムを備えた映画館でハリウッド映画に身を浸すような豪華な味わいがありました。ドボルザークは華やかなサーカスみたいで、ビゼーは強力無比の進軍のようで。 しかし、私は、全く不幸せだった。音が豊かに大きく鳴るほどに、そこに違和感がある。あまりにもミリ単位で合っているので、不可避的なずれが生じるとき、それが気になって仕方がない。いつのまにか、減点法で演奏を採点している自分がいる。たとえば買収相手の企業のあら探しをするような視点で。 あんなに大きな音がしなくてもいい。 あんなにピッタリ合ってなくてもいい。 誤解のないように。 コンサートは大成功でした。聴衆は、新生銀行のご招待が多かったみたいですけど、大熱狂。客観的にいって、たいした演奏だった。 私はマゼールを尊敬してます。録音より実演のひとで、大変な才能だと思う。 なぜか「ゲテモノ」向き?のところがあって、「幻想交響曲」とか、深淵をのぞき込むような思いをしたことがある。 ニューヨークフィルも立派です。本当に名手揃い。 家にかえって、大好きなビデオを取り出しました。 #ダニーケイとニューヨークフィルの夕べ ・・いやあ、やっぱりいいオケだ! なぜ自分が、あれほどの大演奏に、あれほどの拒絶反応を示したのか? 高校生の頃の自分なら、熱狂して興奮しただろうに。 その答えは、たとえば、ニューヨークフィルの直後に聴いた # 有希・マヌエラ・ヤンケのリサイタル にあるかもしれません。 要するに、私は「ヨーロッパの音楽」が好きなんです。 ニューヨークフィルは、やはり21世紀のアメリカを代表するオケでした。その演奏は完璧なまでに21世紀アメリカ文化を伝える、見事なものでした。 演奏が雄弁であるほどに、生理的に私に合わなかったのだと思っています。 #
by Cosi-Ferrando
| 2006-12-05 12:33
| コンサート
11月3日 サントリーホール
アーノンクール指揮ウィーンフィル モーツァルト アヴェ・ヴェルム・コルプス 合唱:バッハコレギウムジャパン ブルックナー 交響曲5番 舞台上にオルガンがおいてあり、あれ?どうして?と思ったら、ウィーンフィルと一緒にバッハコレギウムジャパンの合唱陣が入場してきました。 クレメンス・ヘルスベルグ楽団長によるスピーチ 今日11月3日は、サントリー佐治さんの命日であると。ブラームス「ドイツレクイエム」の一節をひいたり、さる詩人(ヘルダーリン?聞き取れませんでした)の一節をひいて「偶然は神への挑戦?冒涜?であるー偶然などというものはなく、すべてのめぐりあわせには、それなりの意味があるのだ」と。11月3日は日本では文化の日にあたるのだ、と。この音楽を、佐治さんの追悼に演奏する、アーノンクールいわく、この曲は完全性を備えた音楽であると。 とっても素敵なスピーチでした。 心にしみる演奏。 さて、ブルックナー 名演でした。すばらしい。唖然とするほど素晴らしい。 一言でいえば、アーノンクールとウィーンフィルでなければ、断じてあり得ない演奏だった。 その演奏を、考えられる限り、最高の水準と献身をもって実現した。 感動的でした。 では、彼らでなければあり得ない、とはどういうことか、何が特徴的だったのか? それを論じるために、私は、ヴァントを引き合いに出します。 全く違うタイプであり、素晴らしい演奏だから。 <ヴァントのブルックナー> 私にとって究極のブルックナー演奏はヴァントです。 彼は、「いわゆるブルックナーらしい演奏というものは『抹香臭さ』があって、自分はそれがいやである」という趣旨の発言をしていました。 いわば、カトリック的忘我の境地からいったん脱却して、譜面をアプリオリに抽象化して、再構成する。絶対的アプローチのブルックナー演奏。 ブルックナーに限りませんが、ヴァントは、20世紀初頭のヨーロッパ美学が基本にあったひとで、断固として客観的であろうとした。ただ、彼が素晴らしかったのは、その客観化への情熱が異様なテンションと徹底性をもっていたことです。完璧なアンサンブルへの熱狂的な執着が、見果てぬ夢のような美しさへ到達した。 だからヴァントは、一方でブルックナー演奏の『抹香臭さ』を嫌いながらも、一方でブルックナーについて、「宇宙」とか、「神」という発言もしている。その立ち位置に、私はとても共感する。 <ピリオドアプローチ> あたりまえですが、アーノンクールは、全然、違うタイプです。 彼は、いうまでもなくピリオドアプローチのひとで、つまり、譜面を抽象化するのではなく、逆に、譜面の出自に注目して、どのような事象からその譜面になったのか、という読み方をする。具体的アプローチといってもよい。 ピリオドアプローチは、曲解すれば、その音楽の生まれた文化を身に付けた者でなければ、その曲の演奏はできないーもっと言えば、作曲された当時に戻らなければ、譜面を読み誤る、ということになって、おかしなことになるのですがーもちろん、アーノンクールがそんな浅はかなことを言っているはずもない。 <アーノンクールとウィーンフィルのブルックナー> アーノンクールは、ウィーンの血を解放しました。 といってもウィンナワルツにイメージされる優雅なウィーンとは、ちょっと違う。 もっと正確にいえば、ウィーンフィルのワルツは、ただ「優雅」という日本語だけでは、おさまらないものをもっている。血が騒ぐんです。 その「典雅」と「野趣」の信じられないような見事な混合が、あのオーケストラの唯一無二たる所以だと思う。 いわば、強烈なローカリズムをもったオーケストラ。 繰り返しますが、ここにいうローカリズムというのは、田舎臭さじゃない。 典雅と野趣、洗練された美的感覚と、根元的な力の、不思議な混ざり方なんです。 その「ローカリズム」が、圧倒的な高揚を見せました。 高揚といっても、ヴァントが批判した、忘我の主観的演奏じゃありません。 よく考えて、タイトな構成感を感じさせる、非常に知的なアプローチがある。 そこまでは、イメージしたアーノンクールそのものだった。 しかし、そのうえで、高揚するんです! そこに、この指揮者とこのオケの組合せのおもしろさがある。 どのような音楽なのか、指揮者とオケが、ねっこのところで、完全な共有をもっている。 ブルックナー特有の繰り返しに伴って、演奏は、熱していく、というかトランスしていく。 3楽章トリオとか、4楽章第2主題とか、沈静化作用をもったブロックだと思っていた部分が、全然そうじゃない。3楽章トリオの楽しさといったら、村祭りみたいでした。4楽章第2主題の果てしなく続くピチカートは、弾き続けるほどに高揚して、もうドキドキした。 金管のコラールは、美しくて、柔らかくて、原色感があって、ほとんど肉体的ショックを受けるような鳴り方をした。 両端楽章のクライマックスで補強されたティンパニ(アルトマンの至芸!)は、とても言葉にならない。打楽器じゃなくて、分厚い絨毯が豊かに繰り出されてくる。 こんな演奏、ゼッタイに他のオケにはできません。 やっぱり、ものすごいオケです。ウィーンフィルは。 ご存知のとおり、最後は大変な演奏効果をもった音楽です。 フライングブラボーの懸念ある大曲の典型(笑) ・・しかし、あまりにも圧倒的な演奏に、しばし、誰も拍手できませんでした。 私といえば、もう身動きできなくて、しばらく惚けてしまった。 畏敬の念をもって感謝。 ベト7、たいへんなことになりそうです。 #
by cosi-ferrando
| 2006-11-04 08:59
| コンサート
10月19日(木)サントリー
アバド指揮 ルツェルン祝祭管 ポリーニ独奏 ブラームス ピアノ協奏曲2番 ブルックナー 交響曲4番 トランペット首席 ラインホルト・フリードリヒが、真っ先に舞台に出てきました。 入場してきた、と言うより、喜色満面、ぴょん、と飛び跳ねて。 そういうコンサートでした。 プロ中のプロ、名人集団に対して妙なたとえで失礼ですが、 #初々しい高校生の、文化祭の最終日みたいな ブラームス、ポリーニとアバドがそこに居て、この曲を演奏している、 ーそのこと自体がもはや #歴史のひとこま という感じですね。 緊張感あふれる、というよりは、むしろリラックスした演奏とききました。 といっても、ゆるんでタガが外れてるのとは全く違う。全く違うのです。 その機微をうまく文章にできるかどうか。 たとえば、素晴らしく音楽的な、楽章から楽章への移りゆき。 1楽章がおわって、そのまま気合い一閃、2楽章に入る。 美しい3楽章から、そのまま、すっと終楽章へ。 ・・そういう楽章の移りゆきは、最高度の集中がなければ、実現しないものです。 2楽章のあとは、ハッキリと間をとって、チェロ首席ブルネロ(なんて贅沢な!)が、 ソロを奏で始める。 あの3楽章こそは、今のポリーニ、今のアバドが良く現れた、至福の時間だったと思います。 ポリーニのピアノを聴く、という意味でいえば、やはりリサイタル(アンコール5曲!)の凄みに一歩を譲りますが、親密であること、リラックスしていることと、音楽性の純度が、途方もない高みで調和している、この幸せ感は、やはり特別でした。 さて、ブルックナー 先日のマーラー6番は、完璧な、至高の演奏でした。 およそオーケストラ演奏というものが為し得る、最高の姿が、そこに具現されていた。 自発性とアンサンブルの究極の一致。 減点法の意地悪な採点にも完璧に答えてみせる、鋼のような音楽の力強さ、凛々しさ。 絶対崩れないフォルム。 #宇宙船の航行のような という突拍子もない私のたとえは、完璧と美の、アポロン的な一回性の結合をいいたいのです。 ・・ああ、語彙がない。 そこにあったのは、もはや演奏などというものじゃなくて、音楽そのもので、 妙なことに、音というより、何か固体のような、磁場のような、わけがわからんものです。 輝くのです。 命、かもしれない。 ・・・オカルトめいたことを書くつもりはありませんが、要するに、超えてました。 伝説の誕生です。 ブルックナーは、そうじゃなかった。 減点法でいったら、オリンピック本選まで進めません(笑) もう痛快なんだ。 皆様ご指摘の、アタマのホルン(名手シュナイダー)のプルッ から始まって、 管楽器各セクションの横綱達が、なかよく順番に、 #おっと #あら #うは、 これは、いちいちケチをつけたら、いけませんヨ。 3番サード長島のトンネルみたいなものです(わたし、その世代ではありませんが) いちいち豪華なんだ。 ジャック・ゾーンも、ザビーネ・マイヤーも、ラインホルト・フリードリヒも、 全然「守り」に入りません。 安全に演奏しよう、という意識がもはや消えてしまって、 なんというか、要するに楽しくやってました。 ただ、演奏という行為の非常に難しいところは、やっぱり、そういうタイプの演奏は、 至高の出来にはならないんですね。 断じて、断じて「手抜き」じゃない。 断じて、断じて「最終日になって、集中力がきれてきた」 のでもない。 あの比類ない演奏を形容するとすれば #人間的な マーラー6番は、人間を超えた演奏でした。 ブルックナー4番は、 オーケストラというものが、人間の営みの中でも最高に素敵な行為だ ってことを再認識するような演奏でした。 ブルックナーの音楽の本質には、畏敬の念を覚えるような、宇宙的なものがあります。 アバドとルツェルンの演奏には、そのような要素は余り多くなかったと思う。 最後に輝かしく音楽が終わったとき、私は畏敬にうたれて動けない、のではなくて #ああ、たのしかった! と思いました。 なりやまない拍手の中で、楽員達が楽器を片づけて、退場していきます。 その退場光景を見ながら、私は思いました。 #高校の文化祭が終わったみたいだ。 だって、楽員達がてんでに喜んで楽しくって、 あっちで抱き合ったり、こっちでスクラム組んだり わあ、わあ、yeah、yeah 最高の音楽、という意味では、断然、マーラー6番でした。終生、耳に残るでしょう。 でも私は、このブルックナー4番がきけて、本当に幸せでした。 少しは演奏の細部にふれておきましょう。 アバドらしい流麗なブルックナー。 1楽章、ビオラセクションの聴かせどころはタメイキが出るばかりの美しさ。 たぶん、2楽章の途中から、特段に高い次元に入ったと思います。 3楽章は勿論アバド向きの音楽で、駿馬のような、たいへんな聞き物でした。 4楽章は、出だしから最初のクライマックスまでが、特にものすごい出来で、瞠目しました。 そのあと、もうすこし楽々とした音楽になって、そのまま幸せに最後までいったかな。 あの神懸かり的なコーダは、楽しさ満点の演奏だと、神懸かり的にはなりません。 それはそれは輝かしく、さんさんと陽光がふりそそぐようなコーダでした。 ーーー 祝祭のおわりに アバドは、本当に、偉いひとです。 感謝と敬意と・・・ 言い尽くせません。胸がいっぱいです。 そして、もうひとつ。 これだけの演奏を経験して、しかし、その直前にきいた ハーディング=マーラーチェンバーの素晴らしい印象は、全く衰えません。 いや、ますます深まるといってもよい。 このブログを見て下さっている諸兄に、あらためて申し上げたいと思います。 #ハーディングを聴こうよ。 私達は、これから、彼とともに時を刻むのです。 とりあえず、来週末のNHK-BSで、 ハーディング=スカラ座 モーツァルト「イドメネオ」 <<必見>> #
by Cosi-Ferrando
| 2006-10-21 15:28
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