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ギュンター・ヴァントの仕事

ひさしぶりに ヴァント指揮NDR モーツァルト「ジュピター」を聴きました。

感動的です。素晴らしいとしか言いようがない。

このところ忙しくて全く更新できませんでしたので、ヴァントで再開しましょう。

===
私がヴァントをはじめてきいたのは、NHKのFM放送。

ラジオをつけると、シューベルト「グレート」の2楽章なかほどでした。
完璧なアンサンブルと、豊かな歌が両立し、深々と呼吸しながら、音楽が豊かに進みます。
私は音楽にうたれ、そのまま最後までききとおした。
一体だれが、このような演奏をするのか?
拍手がフェイドアウトして、アナウンサーが告げました。

1985年 ブレゲンツ音楽祭 ウィーン交響楽団 指揮 ギュンター・ヴァント

なにものか?!
彼が既にN響ほかに客演しており、大評判だったことを、私は知りませんでした。
ただちに石丸電気にいって、彼の「グレート」を求めます。
ケルン放送によるスタジオ録音のLPでした・・

彼の音楽は、スコアを純粋に読み込み、完璧なアンサンブルを徹底的に追求するところから出発します。音楽の出自(民族性とか、ストーリーとか)よりも、音楽そのものに焦点をあわせた姿勢は、20世紀初頭・モダニズムの美意識です。
若杉さんのいう「精密なジャンポジェット」。

しかるに、ヴァントがぬきんでているのは、こうした美意識・職人的な完璧さの追求に加えて、他の要素を兼ね備えているからでしょう。

磨き抜かれたアンサンブルを極限まで追求しながら、推進力を失わないことー時にビックリするほど豪快な、真一文字のエネルギー。あるいは音楽そのものに焦点をあわせながら、音現象の淡泊な追求には陥らず、音楽に高潔な気品があること。徹底管理のアンサンブルの中から、意外なほど豊麗な「うた」が表出されること。

引き締まった響き、緊張感、推進力を持ち前としながら
気品があり、歌があり、
全てを統合して、古典的な、アポロン的な様式感におさめる構成感がある。

精密と剛胆。潔癖と詩情。純粋で強い、音楽への集中、意思、愛。

こうした要素をあわせもった指揮者だからこそ、最晩年において、更に一段と深い、柔らかく大きい美しい世界へ舞い上がったのだと思っています。

私はかつて、クラシックファンサイト「招き猫」に投稿し、この深化を「ジャンボジェットが鳥になって、自由に空をとぶ」といいました。そのときの私のかきこみは、私なりのヴァント論がまとまっていると思うので、下記に再掲しておきます。いつか時間があったら、もう一度再構成してみたいと思っているのですが、基本的な考えは、今も変わりません。

★★以下、「招き猫」への私の投稿★★

<1984年・カルミナブラーナを論じたスレッドから>

(前略)

この頃の演奏を、私は「徹底管理!」と表現したくなることがあります。
(そこに惚れ惚れしちゃうのが私です)

結果として、しばしば、器の小さな、窮屈な音楽になります。

ヴァント=NDRの初来日(最後の来日ではなく、90年代にブルックナー8番)のとき、プログラムに若杉さんのコメントがのっていました。

#ヴァントの音楽は、ジャンポジェットに似ている。細かい部品が完璧につなぎあわされて、美しく空を飛ぶ

まさにそのとおりだと思います。

しかし、そのままであれば、ヴァントは、あるいは最高の職人であっても、最高の芸術家にはならなかったかもしれない。

音楽の不思議は、そのヴァントが、最晩年に不思議な変容を遂げた、ということですね。ジャンボジェットが、遂に空を舞う鳥と二重写しになるとき、聴衆は感動したのです。精密を求め続けることの極北に、精密とは違う芸術の地平があった。
ミューズの神は、ヴァントに優しかったのです。

(中略)
私はラトルが本当に好きなのですが、彼がベルリンのジルベスタで取り上げた
「カルミナ」は
#こんなに楽しくて本当にいいのかしらん?
という気持ちにもなる。

20世紀音楽としての「カルミナ」には、どこかに、知性が欲しいのです。
動物的・原始的エネルギーに助けを求めたくなるような、
それでも動物的・原始的になりきれないような
そういう、知と情の葛藤。

ヴァントは、明らかに知が勝った演奏で、
しかし、豪快に解放されるエネルギーを、強引に知が押さえつけたような、
葛藤がある。
私は、そこに
「曲本来の姿」20世紀インテリとしてのオルフが顕れているようにも思うのです。

上記については、ヴァントのストラビンスキーにも共通する議論だと思います。
しかし、ストラビンスキーとオルフを比較すれば、ストラビンスキーのほうが、より「知」に重点があることは間違いない。
だから、ヴァントは、ストラビンスキーを晩年に至るまで繰り返し演奏しており、
一方「カルミナ」は決して頻繁に取り上げるレパートリーではなかった。

あるいは、だから
「火の鳥」組曲をとりあげるとき、
よりロマンティックな1919年版ではなく、
よりザッハリヒな1945年版を使う、ということだと思います。


<<晩年のヴァントに訪れた芸術的な転機は、奇跡だろうか?という問いかけに対して>>

私の意見:
奇跡であると同時に、彼の歩みが必然的にもたらした実りでもあった、と思います。

以下、長くなりそうですが。
抜群のオーケストラドライブ、という点でいえば、
たとえばロジェストベンスキーのような人も頭に浮かびますね。
凄腕で、楽しい指揮者。

しかし、ヴァントが私にとって特別なのは、
そのような、徹底したオーケストラコントロールが、
完璧なメカニックを突き抜けたものー美とか、永遠性とか、
への憧れと並存している点です。

この点は、私が彼を最初に聞いたときから一貫して変わらない印象です。
1985年ブレゲンツ音楽祭ライブのFM放送
ウィーン交響楽団・シューベルト・グレートを聴いた私は、
完璧さと豊かな歌が両立し得ることに、驚愕したのでした。

ヴァントは、自らの音楽について明確に語る人です。
私は彼の演奏を夢中で次々と聴いて、
やがて彼の音楽を自分なりに理解したつもりになり、
後に彼の発言に接したとき、理解がそれほど誤っていなかったらしいことを知って嬉しく思いました。
手元の文献から拾ってみます:

彼は、基本的に、20世紀前半の美学の人です。
モダニズム、普遍主義、テクスト至上主義、完璧なメカニズムへの指向など。
その面目を示す発言として
「ブルックナーは・・『演奏会場の教会音楽家』と解釈されてはならない。・・最大の交響曲作曲家の一人であること、単に敬虔で神聖な気分をもった作曲家ではないことを明確に示したいと考えている」
「・・荘重な典礼やらお香のたちこめる儀式やら・・それはけっして偉大なブルックナーの芸術といったものではない」
(ギュンター・ヴァント音楽への孤高の奉仕と不断の闘い ザイフェルト著・根岸訳 音楽の友社 2002年 357ページ)

一方で、彼には、純粋な精神性への志向があり、それは「祈り」に近づきます。
それがバーンスタイン的(アメリカ的)純朴さをとって現れるのではなく、
ブロムシュテットのように美しい宗教的信条として示されるのでもなく、
思索的に示される。

「・・一人の人間がどうやってあのようなことをなしえたのかは、謎としかいいようがないのだ。私にとってモーツァルトという人物は、いうなれば神の存在証明のようなものである。」
「この天才によって音楽は、恩寵のはたらきとしてわれわれのもとに来たのであり、そこには端的に神のメッセージが存在する」(前掲書20ページ以下)

「・・私はなぜ彼がこれほどまでに完璧を求め続けるのかを、思い切って尋ねることができた。ヴァントは・・静かにこう言った『こういうことについて語れるものかどうか分かりませんが、それは宗教的な瞬間なのです。・・コンサートは礼拝ではないし、そうであってはなりませんが、でも宗教に向かうものではあり得ます。指揮台でそんなことを考えているわけではありません。ただ音楽のことだけを考えています。ところがある瞬間に、音楽はそちらの方へ向かっていきます。宗教的な概念が音楽に入り込んでくるなどと想像する必要はありません。音楽事態がそういった要素を内包していて、そこから宗教的な瞬間が生まれるのです』『私の頭は明晰で、醒めています・・』
(Ronald Vermeulenのインタビューに答えて
「Gramophone Japan」2000年5月号12ページ)

彼は、ザッハリヒなモダニストであり、究極のアンサンブルを求める職人でしたが、
同時に、きわめて純粋で深い、音楽への愛をもった人でした。
その理想の音楽への憑かれたような集中と純粋性は、
若いときから一貫して変わっていないのです
ーたとえば、ヴァント46歳、1958年の「アイネクライネナハトムジーク」、
53歳、1965年の「モーツァルト交響曲34番」に、
そうした純粋性がはっきりと聞き取れます
(ケルン・ギュルツェニヒ・オーケストラ TESTAMENT盤)

彼の「カルミナブラーナ」でいえば、
物語を経て、ソプラノソロ(美しい伴奏の響き!)を優しい合唱が受け入れた後、
遂に回帰する「おお運命よ」冒頭部。

聴衆も、演奏者も、熱くなり高揚するはずのこの部分で、
ヴァントは完璧な統率を示します。
マグマのような圧倒的なエネルギーを相手に回して、
これを完全に制御しようとするその意志力!
音形が繰り返され、音量が一段とピアニシモに落とされるとき、
知と情の葛藤は極限に達します。
CDを聴いていて、椅子から一歩も動けないほどです。

なぜ、あなたは、それほどまでに意志を強く持つのですか?
オケと合唱が一気に全開されても、鉄の意志による統率は緩まない。
情熱を氷付けにしたような圧倒的な演奏は、最後の和音に到達しますが、
その和音は余りにも短く打ち切られ、聞くものの開放と感動を許さない。

このラストには、当時のヴァント(72歳・1984年)の演奏特性が端的に現れています。いわば余りにも潔癖、最後の最後でちょっと物足りないーもう少しだけでいいから「演出」してくれたっていいんじゃないの?―その潔さが、私には感動的なのですが。

そのような音楽を徹底して求め続けてきた人が、80歳を超えて、なお指揮台に立ち続けたとき、「ジャンボジェットが自由な鳥になる」実りの季節を迎えた
ーそれは、美しい必然というべきではないでしょうか?

以上を音楽現象として言い換えるなら、
潔癖な彼は最晩年に至り、遂にー決して「聴衆へのサービス」ではなくー
ここぞという部分で存分に深い表現が可能になった、
とも言うことができるでしょう。

「音楽がスコアから流れ出るにまかせることができるという点で、昔よりも勇敢になっていると思います。音楽をコントロールでき、自分をもっと率直に表現できるのが分かっているからです」
(前掲のインタビュー 「グラモフォン・ジャパン2000年5月号 p12)


(中略)
違う音楽になったのではなく、それまでの音楽が深化したと思います。
それは奇跡であると同時に、
彼の歩みが必然的にもたらした実りでもあった、と思います。
ミューズの神は彼に優しかった。

===

以上、引用おわり。

次回は、私が特に名品と思うCDを挙げます。
by Cosi-Ferrando | 2007-04-22 14:22
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